渋沢栄一。
2024年からの新1万円札の顔。そして現在の大河ドラマ『青天を衝け』の主人公です。
先週NHK『歴史秘話ヒストリア』で渋沢栄一をとりあげていました。
彼は実は幕末のテロリストであり、その直後なぜか将軍に仕え、明治政府にも関わり、柔軟に生き方を模索していきました。
渋沢栄一が起業や創立に関わった企業は500にもおよびます。
そんな渋沢栄一がお札の顔になるのはなぜでしょうか。
目次
若き日の大志と挫折
裕福な農家の子でした。豊かさの理由は、この地域で盛んだった藍を丸く固めた藍玉。
栄一の家は藍の葉の栽培から、加工、販売まで幅広く行っていました。
14歳で商いに関わるようになった栄一。若い頃から見聞を広める機会に恵まれていました。
若き日のテロリスト時代
しかし江戸幕府を頂点とする当時の政治のあり方に疑問をもつようになります。
そして尊王攘夷の影響を受けるようになります。
国内にいる外国人を排除するとか、幕府を倒すといったような、過激な思想を持つようになり、テロ運動へと身を投じていくのです。
しかしその行動を、2歳年上の従兄尾高長七郎(『青天を衝け』では満島真之介さんが演じられています)に止められます。
1863年11月のことです。
一橋慶喜
そしてその翌年、栄一はコネで一橋慶喜の家臣となります。追手から逃れるためでした。
なんと栄一は初対面の一橋慶喜に「今日は幕府の命脉(ピンイン=命の綱の意味)もすでに滅絶した。『雨譜譚』より引用」と言い放つのです。
「もう江戸幕府なんてダメだよ~ん」という意味です。
この場面、『青天を衝け』の初回でやってましたね。
はっきりと物を言う栄一を一橋慶喜は信頼するようになりました。
こうして栄一は農民から武士へとなったのです。
フランスでの運命の出会い
1865年。栄一が一橋家に仕えて半年ほどたった頃。
全国を回って、財政的な改善策を考える役割につきました。
栄一はその才覚で、年貢米の売り方の改革を行い、利益をあげます。また綿花も利益をもっと高く売れるように流通を工夫し、一橋家も農家も豊かになります。
「皆で豊かになること」これが栄一の昔からのモットーでした。
そして慶喜は15代将軍になります。
1867年1月。栄一は慶喜の弟昭武のお供でパリ万博見学のためフランスへ旅立ちます。
その旅の途中、スエズ運河の工事を見て、株式会社というものが巨大な資本を集めて国の利益どころか世界の利益にかなうようなこともやれるということにカルチャーショックを受けます。
株式会社という存在との出会いです。
その後産業革命真っ只中のフランスで、巨大工場や鉄道網に驚かされます。
そして、人々が身分や貧富の差に関係なく、お金を投資し、株式会社を設立し、利益を分け合っている姿を学ぶのです。
商業で社会を変えたい。平等社会の実現でした。
そして大政奉還。
将軍慶喜が朝廷に政権を返したという知らせを栄一はフランスで聞きます。
明治の世が始まったのです。
徳川昭武がパリ万博を見学している間に、徳川幕府は消滅しちゃったわけですね。
皆で豊かになるために
株式会社の誕生
1868年11月、帰国した栄一は静岡に居を構えます。
静岡には慶喜や旧幕臣たちが移り住んでいました。彼らが生活の基盤を取り戻せるように、政府や藩の政治の力だけでなく民間の力を借り、出資金を募り、食料などの売買や金融事業を始めたのです。
大蔵省の役人になる
その1年後、明治新政府の大蔵省から呼び出され、西洋流の経済力をつけるために、栄一の力が一役買うことになります。租税正(そぜいのかみ)に就任。
鉄道、保険制度、銀行、紙、レンガ…などなど、当時の日本には足りない物ばかり。
そのために海外で見た株式会社が不可欠になります。
銀行、製紙工場を設立する
明治政府に入って4年。栄一は政府を辞めます。
1873年1月。日本初の株主募集の記事が載りました。銀行を設立するのです。
半年後、日本初の銀行である第一国立銀行が誕生しました。
栄一が経営責任者です。
銀行の次は紙こそ近代化のいしずえだと考えた栄一は、1875(明治8)年12月、抄紙会社の工場を開業させました。
新政府からの圧力
ここで明治政府から圧力がかかります。
新政府経営の製紙工場を栄一の工場のすぐ隣りに建てたのです。
この企て、一説には影に岩崎弥太郎がいたとも?
大隈重信と結びついた政商が非常に力を持っていて、それを肯定できない人間を潰しにかかったとか。大隈にさんざんいじめられたとか?
『青天を衝け』に岩崎弥太郎は出てくるのかな?誰が演じるの?香川照之さんの印象が強いけどね。大隈重信は出る?
しかし。
結局明治政府は渋沢栄一を頼ることになります。
財政安定をめざすために急ピッチに地租改正をすすめる上で、大量の地券を発行する必要がありました。
短期間での大量の地券発行。これを渋沢栄一の会社に委託することになり、ピンチに陥っていた栄一の工場は息を吹き返します。
こうやって渋沢栄一は日本経済の発展に大きく貢献していきます。
栄一が辿り着いた境地
1928(昭和3)年、88歳の渋沢栄一の肉声が残っています。
第一次世界大戦から10年後。次の大戦が忍び寄る時代。
「科学の進歩から戦争を昔日よりも二重にも三重にも激烈惨たんたらしめております。一国の利益のみを主張せずに、政治経済を道徳と一致せしめて、真正なる世界の平和を招来せんことを諸君とともに努めたいのであります。」
志なき利益の追求を戒め、未来への責任を果たす。
渋沢栄一が辿り着いた境地です。
読書会が開かれるほどに人気の『論語と算盤』
まとめ
『歴史秘話ヒストリア』では、事業をどんどん広げていった様子が描かれませんでした。
またいつか、『青天を衝け』の話がもう少し進んだら、再度渋沢栄一をとりあげるかもしれませんね。
渋沢栄一がお札の顔になるチャンスが実は60年ほど前にあったのです。
1962年。
千円札の顔を伊藤博文と争いました。
しかし伊藤博文の立派な髭が、偽造防止になるため、伊藤博文が当選。
あれから数十年。偽造防止の技術も進み、渋沢栄一は3代目の1万円札の顔になることが決まりました。
岩崎弥太郎がお札になることはないような気がしますね。
渋沢栄一はどちらかというと政治家に近い存在。
岩崎弥太郎は実業家、経営者という感じ。私の個人的な感想です。