年末年始とインフルエンザで寝込んでいた私は、ネット配信の映画やドラマを片っ端に見ていました。
『大奥 season2』もその1つです。
『大奥 season2』の最終回、天璋院と瀧山が船上で出会った女の子たちの1人が「津田梅子」でした。
目次
官費女子留学生
留学期間は10年という長いアメリカ滞在を経験させるという官費女子留学生。
日本政府が旅費・学費・生活費を全額負担した上で、さらに奨学金として年800ドルを支給するという破格の留学制度ではありましたが、10年の留学によって結婚適齢期を逃がしてしまう危惧もあり、官費女子留学生の募集に応じたのは、明治政府から冷遇されていた旧幕府側(幕臣または賊軍)士族の女子5名でした。
その中には、山川捨松もいました。当時満11歳。
津田梅子は、幕臣津田仙の娘で、留学生の中では最年少の満6歳でした。
アメリカへ
1871年12月23日に横浜を出発し、1872年1月15日にサンフランシスコに入港します。
152年前の今日です。
日本への帰国
アメリカで恵まれた留学生活を送った梅子は、10年という留学期間を1年延長して、日本に帰国します。
明治15(1882)年11月に帰国した時点で、梅子は日本語を完全に忘れていました。生涯、母国語は英語だったそうです。
帰国後、思うように官職を得ることができなかった梅子は、伊藤博文宅の家庭教師や通訳などをしたり、華族女学校で英語教師をしたりしますが、上流階級的気風には馴染めなかったようです。
華族女学校では、当時の教員としては破格値のお給料でした。
しかし、華族女学校の生徒たちは勉学の意欲が乏しく、梅子には物足りなかったのです。
再留学
24歳になった梅子は明治22(1889)年7月に再び渡米、ブリンマー大学で生物学を専攻します。
2年半の大学生活を終え、帰国すると再び華族女学校に奉職、明治女学院講師も務め、女子高等師範学校教授も兼任します。
英国各地やパリを訪問し、英国ではナイチンゲールと面会します。
またアメリカでは、当時18歳のヘレンケラーとの面会ではサリバン先生とも会うことができ、「教育が人を変える」ことを学びます。
女子英学塾を創設
梅子は「自らの学校」を開くことを決意します。
多くの支援者がいたものの、経営は困難を極めますが、学生数十名で出発した「女子英学塾」は、それまでの良妻賢母主義的は女子教育と違い、進歩的で自由なレベルの高い授業が評判となり、8年後には学生数150名に達するのです。
「女子英学塾」は「津田英学塾」に変え、戦後の学制改革を経て「津田塾大学」となりました。
紙幣改定に於いて、五千円札に津田梅子の肖像が使用されることが決まっています。