徳富蘇峰が故郷熊本を離れて上京したのは明治19(1886)年。
上京からわずか2か月後に平民主義を唱える雑誌『国民之友』が創刊されます。
第1号は菊版版42ページ立てで、記録によれば7500部印刷してたちまち売り切れたそうです。
第10号で1万部、第20号で1万3500部に達しました。
当時、月刊誌としては破格の数字です。
『国民乃友』の成功は、明治20年代の雑誌創刊ブームの幕開けを告げることとなります。
明治22(1889)年には『日本』を創刊し、西洋文化の無批判な模倣に反対し、日本固有の伝統のなかに価値の基準を求め(真・善・美)それを基礎に国民国家をつくりあげようとする、いわゆる国粋保存主義を説きます。
参考文献⤵
日付は明治27(1894)年7月5日。
130年前の今日です。
内容は以下のとおり
謹啓 昨日は御来訪被下候処不在中にて欠禮仕候 却説右御用事の義は如何に候哉御伺ひ申上候 小生本日十二時前よりは中央政社に居り候 小生昨今は親戚の留守居を命ぜられ赤坂区霊南坂町三十四番地松野方(貴兄の霊南坂町の御旧宅より二三丁目東方にて江戸見坂の上、大倉喜八郎氏正門向ひ)に居り候に付 右申上候 芝公園の方には居らず候 拝具
七月五日 志賀生
私なりに訳してみると⤵
「謹啓 昨日来てくれたのに留守してごめんね。何の用事だったのかしらん。自分は今日は午前中は中央政社にいるよ。自分は最近親戚の留守番を頼まれて赤坂区霊南坂町34番地松野さん宅にいるから。芝公園の方にはいないよ。 敬具」
「貴兄の霊南坂町の御旧宅」とは、蘇峰の上京後に初めて移住した霊南坂教会に程近い借家だと思われます。
同年齢であり、徳富蘇峰の最初のライバルとして目される志賀重昴。
国粋保存主義を主張し、明治27年大ベストセラーとなる『日本風景論』を著します。
国粋主義 (英語: nationalism)とは、国家主義、民族主義と同じくナショナリズム(Nationalism)、ナショナリティ(Nationality)の日本語における訳語の一つ。近代日本においては欧化主義に対抗して、日本の文化・伝統の独自性を強調・発揚し、これを保守しようとする政治思想である。日本主義とも呼ばれる。
Wikipedeiaより引用
札幌農学校時代は、北海道や東北各地を歩き回っていた志賀重昴。
志賀は地理学の教員として学校で教鞭をとった後、政教社からは次第に離れ、明治35年に衆議院議員となりますが、2年後落選してからは政界から遠ざかり、地理学者として世界各地を視察調査します。