日露戦争で「君死にたまうことなかれ」と表現したのは与謝野晶子。
明治37(1904)年に開戦された日露戦争は日清戦争とは桁違いの大規模な戦争でした。地上戦だけで110万人近い兵員を動員したのです(日清戦争の約4.5倍)
開戦の前年には「人生は不可解」という遺言を残して藤村操が華厳の滝から投身自殺し、それが社会の若者たちに大きく影響を与えたという不安定な背景がありました。
「失望、苦悩、落胆、厭世の徒」をも生んだ時代でした。
目次
与謝野晶子
明治34年に歌集『みだれ髪』を出版し与謝野鉄幹と結婚します。
大正10年に創設された「文化学院」では、学監として女子教育の実践にも携わりました。
文学の枠を超えて教育、夫人、社会問題に関する著述も多くあります。
関東大震災
大正12年。関東大震災の年です。
この震災によって、文化学院が全焼したため、保管していた原稿が、14年かけて書いた1万枚の原稿が焼けてしまいます。
与謝野晶子から徳富蘇峰への手紙
鮮やかな赤枠の封筒に入れられた手紙の日付は、大正12年12月17日。
贈り物をいただいたお礼状です。
与謝野晶子が生まれたのは明治11(1878)年12月7日。
146年前の今日です。
もしかしたら徳富蘇峰は、与謝野晶子に誕生日プレゼントをあげたのでしょうか?
啓上
意外のお贈物を頂き、驚きのなかに、御深切を
忝 く存じます。お目に懸りまして御礼を申上げますが、とりあへず、お使に持つて頂いて御礼を申述べます。
「明星」ハ震災で休刊してをりますが、明春四月から今一度出す相談をしてをります。
春になりましたら必ず御伺ひ致します。
逗子の方に入らつしゃいますか、何れ新聞社の方々に伺つてから参ります。
御健かに、新しき春を御迎へ下さることを祈上ます。艸々
「艸々」は「早々」
女性らしい、美しく優しい文章ですね。
与謝野晶子の年収
震災の翌年に出版した『流動の道』で読んだ歌です。
わがおちし 奈落の底に 燃ゆる火も
衰へがたとなりにけるかな
この時、晶子44歳。
晶子は「女性の生きる道」を模索していきます。
今こそ有史以前からの束縛を女子から解いて
文化行動のあらゆる領域へ
自由にその能力を用いさせるべきです
1925年『女子の活動領域』より引用
NHK『偉人の年収 How much?』によると、この頃の晶子(56歳)の年収は1,884万円。
文化学院女子学部長としての月給より『与謝野晶子全集』などの印税が高かったんです。
源氏物語
愛する夫(与謝野鉄幹)亡き後は、源氏物語の現代語訳に全力を注ぎます。
執筆開始から30年、『新新訳源氏物語』が出版されたのは、昭和14(1939)年、晶子60歳の時でした。
全6巻です。3,249ページ。
自由な解釈で、多様な恋愛が描かれています。
与謝野晶子は、11人の子どもを育て上げた「元祖ワーキングマザー」でもあります。
鉄幹と大恋愛した略奪婚も有名です。
アニメ『文豪ストレイドッグス』のメインキャストでもあります。