政党による政治をこの国に定着させた西園寺公望。
立憲政友会の総裁として政党政治をリードし、天皇の最高顧問元老を務めました。
西園寺公望が好んだという別邸座魚荘が明治村に現存しています。。

お風呂窓の格子には鉄が入っており、侵入者を防ぎました。
壁には呼出しボタンがあり、女中部屋に緊急時代を知らせることができました。
風呂場には外へつながる扉もついています。
理想の政治を追い求めた西園寺は、軍人や国粋主義者にテロの標的となり何度も命を狙われたのです。
目次
出生と留学
幕末から昭和まで生き、公家でありながら政党政治を目指した西園寺公望。
嘉永2(1849)年10月23日、平安時代から天皇家を支えた公家の名門に生まれます。
176年前の今日です。
時は幕末動乱。
15歳で経験した禁門の変では御所の孝明天皇を守り、19歳で迎えた戊辰戦争では新政府軍として戦います。
明治4(1871)年にはフランスへ留学します。
そのパリで内戦(パリ・コミューン)を体験し、民衆のパワーと恐ろしさ覚え、日本に手紙を書きます。
大に民力を蓄へ
大に人心を鼓舞し
所詮大和魂なる者を錬磨して
天下之方向を一途に
天朝に帰向せしめ
更に秀傑之士を使して
深く外国之情実を探り
機会を仮て皇威を地に輝に非ば
何を以てか祖宗之霊を慰や
文明開化を進める日本において「節度ある民衆をいかに育成していくか」という危機感を覚えたのでしょう。
帰国して
10年の留学を終えた公望は「東洋自由新聞」を創刊します。
「君主機関説」をその視察で学んだ西園寺公望。
大日本帝国憲法にはその君主機関説が取り入れられ、「立憲君主制」がここで定まります。
翌明治23(1890)年には帝国議会が開設され、日本発の国政選挙が行われたのです。
政治はしばしば迷走します。
目指したのはイギリス流の政党政治。
理想は「イギリスのように下院の第1党の党首が首相になる」政治でした。
この考えに西園寺も賛同します。
西園寺は大村益次郎と交流がありました。
その影響は大きかった。
元老
伊藤博文や山形有朋、黒田清隆ら7人は重要政策について(戦争の決定や条約の締結、次期首相の指名など)、天皇から
いわゆる
元老が漸進的に政党政治に持っていくように誘導していけばいいというのが西園寺の考え方だったかもしれません。
しかし、それをよしとしない元老もいるわけです。山縣有朋とかね。
西園寺公望は伊藤博文が政友会総裁を辞任すると(山縣有朋にアツかけられた?)、政友会第二代総裁となります。
明治37(1904)年、日露戦争勃発で、勝利したものの、ロシアからの賠償金はもらえそうもなく、巨額の戦費で国の財政は破綻寸前。
時の首相は桂太郎。
桂は政友会の西園寺に首相を譲ります。明治39(1906)年、西園寺内閣成立。
桂と西園寺は交互に総裁を担いますが、その間も山縣有朋を中心とする元老の政治支配(口出し?)は続きます。
引きこもりからの大逆転
西園寺内閣が総辞職に追い込まれた後、伊藤博文が暗殺されたこともあり、山縣有朋の発言権は大きくなります。
首相選定も元老によります。
西園寺は京都に引きこもります。
山縣有朋は西園寺を元老に誘い、政党政治に距離をおかせようとします。
西園寺はこれを受け入れ、大正5年西園寺は元老となりました。
西園寺は元老と敵対していたのですが、自らが元老となり、元老の在り方を変えようとしたのかもしれません。
やがて米騒動が始まり、寺内内閣は総辞職。
山縣有朋は西園寺を総裁に推しますが、西園寺はそれを断り、大正7年原敬内閣が成立。
衆議院議員を経験し選挙の洗礼を受けている原が総理大臣になることで、天皇と国民有権者と両方の権威によって、総理大臣の地位が裏付けられるわけです。
政党政治への実現です。
元老と敵対していたはずの西園寺でしたが。
加藤高明内閣、田中義一内閣、近衛文麿内閣…などの誕生は、西園寺の助言です。
明治維新後、大久保利通や木戸孝允ら薩長出身の指導的政治家が国家建設功労者(元勲)として権力を掌握しました。
明治22(1889)年黒田清隆が首相を辞任し、伊藤博文が枢密院議長を辞任する折、明治天皇から「元勲優遇」の詔を受けました。以後、山県有朋、西郷従道、松方正義、井上馨、大山巌、桂太郎、西園寺公望が加わり9名が元老となりました。公家出身の西園寺を除く8名は、いずれも薩長出身の藩閥政治家で、明治時代に首相を経験した人物は、大隈重信を除き全員が元老に列せられたことになります。
私塾立命館と現立命館大学
しかし京都府庁の砂留命令により1年弱で閉鎖。
西園寺の側近として最後まで行動をともにした中川小十郎が明治33(1900)年に京都法政学校を創設し、「私塾立命館」の名称を譲り受け、それが現在の立命館大学になります。
キャンパス内には西園寺ゆかりのある品々が残されており、西園寺家と立命館大学の交流は現在も続いています。
立命館大学に西園寺が記した教育の草案「第二次教育勅語案」が残されています。
伊藤内閣で文部大臣を務めていた明治31年頃でしょう。
「かつて勅語をくだして、教育の大方針を定めたが、民間では往々にして生徒を導く道を誤っているものがある。今これを矯正しなければ将来大きな後悔をするであろう。」
西園寺は、国民が外国を蔑視し、日本だけを尊大に誇る悪癖を痛烈に批判していたのです。諸外国に敬愛される国民にならなければ…と綴っています。
西園寺公望は、太平洋戦争に突入する1年前に91歳の長寿で亡くなるのです。
教科書には載ってる?
最近、明治時代の大河ドラマを時々見返しています。
『八重の桜』とか『花燃ゆ』とか『西郷どん』とか。
明治時代といっても、『青天を衝け』もそうですが、幕末を描く時期が長いので、西園寺公望の出る幕がないのかな。
『花燃ゆ』では吉田松陰の少年時代をブレイクする前の板垣李光人さんが演じていらっしゃいます。可愛い。

