『麒麟がくる』
姉川の合戦にはまだ至っていません。
私のブログでは、『麒麟がくる』ドラマのレビューではなく、ドラマの感想、そしてドラマに絡めて気になった史実について語らせていただくことがありますので、史実においてのネタバレがでてきます。
ご了承ください。
目次
『麒麟がくる』第31回「逃げよ信長」あらすじ
信長は朝倉の領地である敦賀郡全域を占領した。しかしそこで浅井長政の裏切りをしり、慌てて信長は京に逃げ帰る。
「姉川の合戦」までの流れ
史実では~ドラマではなく史実のネタバレあり
信長が元亀元(1570)年4月越前に出兵し、敦賀郡の城をおとして木芽峠を越えようとするところで、江北の浅井長政がこれを挟み撃ちにするごとく挙兵に踏み切った。信長は金崎城(福井県敦賀市)に木下秀吉を入れて後方を守らせ、命からがら湖西から京都に逃げ帰った。
これを機に江南各地でも一気が蜂起し、六角父子やその旧臣、伊賀・甲賀の侍衆らと連携して信長軍に立ち向かった。
このため、6月19日信長は浅井の居城小谷城攻めに出陣した。
家康も同盟軍として出陣してきた。
織田軍が浅いの支城横山城を取り囲むと、信長の思惑どおり浅井・朝倉軍が救援のため南下してきて、ここに、世に名高い姉川の合戦が展開される。
お市の方が送った小豆袋
以前、ブログで語らせていただいたお市の方が兄信長に送った小豆袋。
その時に、この逸話は後世の創作である可能性が高いと申し上げました。
お市の方は、「うかうかしてると挟み撃ちにあいますよ」という気持ちを込めて、信長に送った小豆の両端をしっかりと縛ってありました。
この小豆袋を見て、お市の方からのメッセージを感じとった信長は退いたというのです。
ドラマではこの逸話を採用しませんでした。
光秀が左馬之助からの報告(九の一か?)を受け危険を察知し、信長を説得したという物語になっていました。
ネットでは「なぜお市の方は小豆を送らないのか!?」「史実を無視したのか?」などという書き込みがありましたが、現実的ではない小豆袋を採用しなかった『麒麟がくる』スタッフに👏拍手を送りたいです。
髪の毛を売って客人をもてなしたという妻煕子の逸話も『麒麟がくる』ではやりませんでした。これと似た逸話があちこちに転がっています。
そういった女性受けするような話ではなく、きっちりと天下布武への道を追いかけるこのドラマが私は好きです。
帰蝶が最近出番が少ないこともネットでは不満が出ていますが(それはドラマの撮影が重なったから仕方ないと納得しながらも)信長の妻は名前はもちろん、存在すら定かではないのです。
沢尻さんをイメージして作られた脚本のせいか、帰蝶がやたら「戦をしろと申し上げたのです」などと口出しをしてきますが、それはやり過ぎのような気がします。
徳川家康
徳川家康が光秀に語ります。
「あの時の干し柿はうまかった。」
わかっていたのか!
変装していた薬草売りが明智光秀十兵衛であったことを!
幼き日に会った光秀の顔を、干し柿の味を、何より光秀の言葉を家康はしっかりと胸に刻んでいたのです。
「朝顔」の撮影で忙しいだろうに、徳川家康よくぞ「姉川の合戦」へ参戦してくれました。
豊臣秀吉~木下藤吉郎
秀吉よ、浅井が迫ってきて一刻を争う時に、自分の身の上話をダラダラと話します?
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら。
佐々木蔵之介さん、イケメンっぷりが魅力的な俳優さんが、こんなにも熱演されて、もうあなたが木下藤吉郎にしか見えません。
おまけに藤吉郎は、京に戻ってからも「光秀さまぁ、誰も信じてくれませぬぅ。この藤吉郎が
しんーがり【殿】とは《「しりがり(後駆)」の音変化》①退却する軍列の最後尾にあって、敵の追撃を防ぐこと。また、その部隊。「隊の殿をつとめる」②隊列や順番などの最後。最後尾。「殿に控える」goo辞書より引用
光秀は怒り狂って、笑顔で光秀を労った柴田勝家に「誰のおかげでその酒が飲めるとお思いか!!!」と怒鳴り散らすのです。
あ~
あ~
あ~
正しいと思うことは、相手が誰てあろうと場をわきまえず口にしてしまう。
光秀はこうやって、信長陣営で孤立していくのではないでしょうか。
そして「いや、それは…」と弁解しようとした安藤政信さんの整ったお顔が気の毒でした。光秀、ちゃんと柴田勝家の話も聞いてやってよ。
この頃から柴田勝家と豊臣秀吉が合わないって伏線かしらん。→賤ヶ岳の戦いへ続く
ところで
足利義昭
将軍足利義昭は、理想論をまた駒に語ります。
なんか現実的じゃないんですよ、義昭の言葉は。
前回私がブログに綴った五ヵ条の条書についても駒にグチってました。
戦のない世にするために戦をする…という光秀や家康とは対照的なポジションなのかもしれません。
光秀氏談「高い志があったとしてもこのうつつの世を動かす力が伴わねば世は変えられん。戦のない世を作るために今は戦をせねばならん時なのだと。」
足利義昭の人生~ネタバレ
足利義昭はこの後1573年信長から追放されるのですが、毛利輝元に庇護されながら幕府再興を計ります。羽柴(豊臣)秀吉、柴田勝家、徳川家康らに上洛支援を要請するも実らず。その後、1587年(本能寺の変から5年後)に秀吉によって帰京を認められようやく京に戻れるのです。
歴代の足利将軍の中では最も長生きした義昭は、61歳で死去しますが、晩年は秀吉のよい話し相手になったとか。カズノコ食べていたという記録もあり、けっこう良い老後生活だったんですよ。
参考文献