皆様は黒船ってご存じですよね?
社会科の歴史の時間に習いました。
1853年、ペリーが黒船に乗って、浦賀に来航しました。
受験生の皆さん、1853は「いやでござんす」と覚えましょう。
東インド艦隊司令長官ペリーは、大統領フィルモアの国書を受け取れと、日本に迫ります。
ペリー来航時の老中首座は、阿部正弘です。安倍じゃなくて、阿部です。受験生の皆さん、漢字間違えないでくださいね。
今日はその黒船の話ではありません。
白船の話です。
「黒船じゃなくて?」
「白船ですか?聞いたことありませんけど。」
いや、あなた方は、クロネコとシロネコ。
今日はちょっとマイナーなお話。
今から100年以上前に世界一周をしたアメリカの「白船」についての記事です。
世界一周、娯楽じゃないですよ。
日本の行く末に大きく影響した航海でした。
目次🚢グレート・ホワイト・フリート
白船、グレート・ホワイト・フリートとは?
1907年12月16日、アメリカのセオドア=ルーズベルト大統領の指示の元、世界一周航海を行うべく、アメリカ海軍大西洋艦隊はバージニア州のハンプトン・ローズを出港します。
この時の軍艦がグレート・ホワイト・フリートです。白色に塗装されていたため、ペルーの黒船と対比して「白船」と日本訳されました。
グレート・ホワイト・フリートは新造の戦艦16隻を基幹に編成され、動員された海軍人の数は14,000人でした。
世界一周の旅
12月16日に出発した白船御一行様は、113年前の今日、1907年の12月23日にトリニダードのポートオブスペインに投錨します。
投錨 とは[名](スル)船のいかりをおろすこと。船が停泊すること。「母港に投錨する」⇔。
goo辞書より引用
この後、白船は世界中あちこちを転々と航海します。
途中爆弾をしかけたというデマが流れたり、台風に遭遇したりといろいろありましたが、1909年2月22日に14か月の航海を終えました。
横浜港で停泊
南アメリカやニュージーランド、オーストラリアなど周った後に日本には途中、1908年10月18日から25日まで横浜港に停泊します。
この時に日本側のもてなしようといったら。
日本海軍は「アメリカ艦隊を歓迎する」という名目で16隻の艦隊(戦艦8隻、巡洋艦8隻)を横浜に終結させたのです。
戦艦「三笠」で歓迎パーティが行われるなど多くの行事が実施されました。
世界一周航海の目的は?
わざわざ大統領の指導の元、大がかりな世界一周航海の目的は何だったのでしょうか。
名目上は「世界各国への親善訪問」でした。
しかし、戦艦16隻を中心とする大艦隊による世界一周は前代未聞です。
本当の目的は?
アメリカは日本に自分の国の海軍力を見せつけたかったのです。
ペリーが黒船で来日した時、日本はまだチョンマゲで、刀をさして、船なんて手か風で動くものしかなかった。
それが少しずつ少しずつ、でも物凄いスピードで力をつけていき、白船が来日する頃には、アメリカですら脅威を覚えるほどの大国になっていたのです。
そんな日本に、アメリカは自分たちの艦隊を見せつけますが、日本も負けてはいません。横浜港にずらりと艦隊を並べ、「見せあい」「誇示しあい」が行われたのです。
それまで友好関係にあったアメリカと日本。
日露戦争後、「有好国からライバル関係へ」と変化していく象徴的な出来事が、グレートの世界一周だったのです。
日本は東アジアの強国となり、急速に勢力を拡大し、欧米列強諸国に伍して(伍する:同等の位置に並ぶ。肩を並べる。仲間入りする。)国際政局で大きな影響力をもつようになります。
国際社会において欧米列強と肩を並べる強国を建設するという明治維新以来の日本の目標は、達成されたわけです。
しかし、日本の強国化、とくに満州への勢力拡大は、日本に対する列強の警戒心を高め、
黄禍論(こうかろん/おうかろん 独: Gelbe Gefahr、英語: Yellow Peril)とは、19
世紀後半から20世紀前半にかけてヨーロッパ・北アメリカ・オーストラリアなどの白人国家において現れた、黄色人種脅威論。人種差別の一種である。 Wikipediaより引用