天下分け目の合戦、関ケ原の戦い。
石田三成率いる西軍と徳川家康率いる東軍との戦いは、慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に行われました。
421年前の今日です。
hiro-beans-attack-no1.hatenablog.com
この戦いを決定付けたのは小早川秀秋の裏切りでした。
目次
関ケ原の合戦とは
関ケ原の合戦の発端は、1598(慶長3)年に豊臣秀吉が亡くなってその後継者争いでした。
豊臣家から天下を奪おうとした徳川家康の前に立ちはだかったのが石田三成でした。
まず三成は徳川の拠点であった京都伏見城を攻めます。
この時西軍の主力となって攻撃したのが小早川秀秋でした。
小早川秀秋
慶長5(1600)年8月1日。
関ケ原の合戦直前の小早川秀秋の行動
この時点で秀秋は紛れもなく西軍でした。
この後秀秋は不思議な行動をします。
宇喜多秀家に「大垣城へ移動する時一緒に行かない?」と誘われても断り、三成に伊勢への出陣を命令されても断り、なぜか急に反抗的な態度をとります。「寛永諸家系図伝」より
秀秋はこの時期、近江に行ったり伊勢へ行ったり、3週間にも渡り琵琶湖周辺を迷走します。天下分け目の大切な戦いの真っ最中に「鷹狩り」をしていたのです。
幼少の頃から酒におぼれる
小早川秀秋は天正10(1582)年豊臣秀吉の妻北政所の兄の子として生まれます。
当時子供のいなかった秀吉はたいそう可愛がり、秀秋を跡継ぎ候補にします。
この空気を察知したまわりの武家たちは秀秋を接待し、幼少の頃から酒でもてなされるようになります。
しかし、この後秀吉に子供ができたため、秀秋を小早川家に養子にだしてしまいます。
やけになった秀秋は酒びたりになります。『足守藩主木下家資料系図』より
アルコール依存症です。
未成年時のアルコールの影響
飲酒を始めた年齢が低ければ低いほどアルコール依存症になりやすいと言われています。
また、酒を飲み始める年齢が低いと脳に深刻なダメージを与えます。
脳は生後6歳で成人の90%が成長しますが、20歳まで成長し続けます。
脳の成長期にアルコールを摂取すると脳が萎縮します。とくに記憶をつかさどる海馬は大きな影響を受けます。
アルコール性肝硬変
曲直瀬玄朔『医学天正記』によると「小早川秀秋は全身が黄色く(黄疸)みぞおちの下が硬く腫れて痛みがある」とあります。
肝臓が炎症を起こしていたのでしょう。たぶんそれはお酒が原因。
つまり小早川秀秋はアルコール性肝硬変であったと考えられます。
この時秀秋はまだ20歳。
20歳でアルコール性肝硬変って、いったい…💦
肝硬変は末期になると錯乱状態を起こします。
肝性脳症に陥ると意識障害などが起こり、反抗的な態度をとったり、正常な判断ができなくなります。
小早川秀秋の不可解な行動はこの健康状態が関係してくるのかもしれません。
関ケ原の合戦前後の小早川秀秋は海馬の萎縮や肝性脳症でもはや正常な判断ができなかった可能性があるのです。
関ケ原の合戦での寝返り
困り果てていたのは、そんな秀秋に振り回されている小早川家の家臣たちです。
東軍の黒田長政から小早川家の家老に「東軍に忠節をつくせば、家老2人をないがしろにしないよ。家康様に寝返っちゃわない?」と誘いがきます。『関原軍記大成』より
家老2人、この提案に飛びついたのではないか。
若輩者の秀秋本人がわかっていたのかわかっていないのか、家老の「裏切っちゃお!」という提案にのっかっただけなのかもしれない、もしかしたら裏切っている意識なく家臣の言うがままに行動していたのではないかという考察ができます。
西軍敗北
石田三成は小早川秀秋裏切りの報を聞き、秀秋の側にいる盟友大谷吉継を案じ、慌てて大垣城から救援に向かいます。その機を逃さず徳川家康が後ろから追いかけ関ケ原での合戦となり、大敗するのです。『吉川広家自筆書状案』より
『軍師官兵衛』『真田丸』と2度にわたって小早川秀秋を演じた浅利陽介さん、ハマリ役でした。
小早川秀秋のその後
貴公子小早川秀秋、優秀だったのか利発だったのか、それはわかりませんが、小さな頃から豊臣秀吉夫妻に可愛がられたおかげで一時はお世継ぎ候補でもあったわけですが、結局関ケ原の合戦の2年後に亡くなります。
死因は秀秋の裏切りによってなくなった大谷吉継の祟りだという説もありますが、文献から考察するにアルコール依存症による内臓疾患でしょう。
秀秋の家臣たちは、関ケ原の合戦での裏切りというブラックな過去によって仕官先がなかったという話もありますが、実際には幕府に召し出され前田家や紀伊徳川家の家臣となった者もいます。
東京大学教授本郷和人さんは、「小早川秀秋が家康と通じているらしいというのは、みんなわかっていた。たぶん1番わかっていたのは大谷吉継。小早川秀秋のいる松尾山に向けて柵を作っていたことからもそれはあり得る話。」とおっしゃいます。
小早川秀秋、信用されてなかったんだね。
関ケ原には当時2,000人の農民が暮らしていました。
田んぼや家など生活の場が戦場となりました。
戦が終わって目にしたものは、踏み倒された田畑と焼け落ちた家屋でした。
そして12,000とも言われる屍です。
村人たちは遺体を集めて葬りました。
関ケ原にはところどころに当時の墓が残っています。
小さな石の墓。素朴な一石五輪塔。徳川の時代になっても西軍の墓は密に守り続けられたのです。
以前に放送されたNHK『偉人たちの健康診断』をまとめてみました。