葛飾北斎は、『冨獄三十六景』『北斎漫画』で知られる日本だけでなく世界でも人気のある浮世絵師です。
北斎は90歳という長寿で亡くなる直前「あと5年長く生きられたら、絶対おれは本物の絵師になれるのに…」と悔しがりました。
北斎が亡くなったのは、嘉永2年4月18日、西暦1849年5月10日。173年前の今日です。
葛飾北斎は絵の天才でしたが、絵のこと以外はかなり変わった人物でした。
目次
出生から幼少期の時代背景
1760年といえば、徳川家治が第10代将軍に就任した年で、同じ年には、独自の麻酔法を編み出した医師の花岡青洲も生誕しています。
1767年には田沼意次が将軍の御用人となり、幕府の政治を牛耳ることになります。
このいわゆる「田沼時代」は、賄賂が横行し華美な生活に走る傾向が強かったと批判されることが多いのですが、実はこの時期の経済は非常に好調でした。
北斎は、1778年に浮世絵師・勝川春章の門下となります。
ここで彼は、狩野派や唐絵、西洋画などの技法を学び、風景画や役者絵を数多く描きます。
人の言うことを聞かない
江戸時代に「芸術家」という職業はありません。
絵師の仕事は注文どおりに絵を描くこと。
しかし北斎は「俺は好きな絵を描きてえんだよ!」とロックな独自路線を貫き、たびたびトラブルを起こしていました。
お金にルーズ
北斎は、もらった原稿料を袋ごと放置し、家賃などの集金が来ると袋ごと投げつけて渡すので、売れっ子になっても貯金すらできません。
いつも金に困り、ひんぱんに知人に金の無心をしていました。
掃除できない性格
北斎も娘の応為(絵の才能があり北斎の助手をしていた)も、だらしない性格であったため、北斎の家はゴミ屋敷化。
ふたりはゴミの中でひたすら絵を描いていました。
無精で部屋を掃除せず、常に破れた衣服を着て、食べ物を包んでいた竹の皮や炭俵などを一面に散らかして、汚れが極度に達すると、すぐに他に転居をしたといいます。
そうじはせず「家が汚れたら引っ越す」を生涯に93回も繰り返し、なんと1日に3回引っ越したこともあります。
葛飾北斎という画家
こういった特性から、葛飾北斎は、ADHDにかなり近いものがあるようだと、医学博士の岩波明氏は唱えています。
私は浮世絵のことはよくわかりません。
「絵」のこと自体よくわかりません。
ただ北斎と娘応為の生活ぶりと人生には興味があります。