令和の米騒動は、しばらく続くのでしょうか。
私たちは「お米は安い」と思い込み、農家さんのご苦労を理解せず当たり前のように毎日ごはんを食べていたことを反省しなくてはいけないと思います。
農家である親戚の真っ黒に日焼けした姿を思い出します。
この先、大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』に関わる史実を記させていただきます。
ドラマのネタバレに繋ながりますので、ご注意くださいませ。
目次
浅間山噴火
江戸時代、天明3(1783)年4月から浅間山噴火が始まり、その後小休止などあるものの、6月28日午後には噴火し厚い噴煙がおこり、降灰します。
242年前の今日です。
6月28日以降は毎日噴火や爆発が起こり、7月7日には本格的になり、関東一円に大量の軽石や火山灰が降り注ぎます。
関東平野一帯は、この噴火による火砕流や岩屑なだれ、大泥流や洪水などにより、甚大な被害を受けます。また火山灰が直射日光の照射を妨げて既に始まっていた天候不順を加速させたことから、天明の大飢饉の原因の1つになったとされます。
大飢饉に見舞われ、米の価格が高騰により、人々は苦しみ、成り上がり者の田沼意次による政権への不信感を強めていました。
権勢をふるう田沼意次・
佐野政言
NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』第6回「鱗剥がれた『節用集』」のワンシーンを覚えていらっしゃるでしょうか。
矢本悠馬さん演じる佐野
この件を、意知は父である田沼意次に伝えるのですが、意次は直前に自分の出自が譜代の名門ではない「成り上がり」だと周囲に散々馬鹿にされて指摘されて、苛々していまして「由緒など」とその系図を庭の池に投げ捨てるのです。
田沼意知を斬りつける
田沼意知は「親の七光り」で異例の人事により「若年寄り」(政権NO.2)に就任します。
浅間山噴火から数か月後のことです。
しかし。
浅間山噴火の翌年、佐野政言による田沼意知刃傷事件が起きます。
意知が政務を終えて江戸城を退出するため新番の詰所の前を通りかかった時に、警備の詰所の番士のひとり佐野政言に突如斬りつけられます。
「覚えがあるであろう!」と叫びながら政言はいきなり一太刀します。
肩に負荷手を負い、その後さらに大腿部を襲われ、意知はその傷がもとで、36歳で命を落とします。
不思議なのはその場にいた大勢の大目付・目付(城内の秩序維持を担う役目)が誰ひとり政言を取り押さえようとしなかったこと。結局政言を取り押さえたのは1番遠くにいた70歳の大目付でした。この不自然な脇の行動は陰謀か?
佐野政言は「世直し大明神」
佐野政言が切腹した翌日、あるいは刃傷事件の翌日から、なぜか米の価格が下がり始めたとされています。
世間の人々は、これを政言のおかげだとみなし、政言を「世直し大明神」と祀り上げました。
そして、若年寄り意知の葬儀には江戸庶民からは石が投げられ罵声がとんだという。
この事件は時代や名前を変えて歌舞伎にもなりました。
政言の墓所のある徳本寺には、老若男女人々が殺到。政言の墓所は仏花が溢れ、立ち上る線香の煙に包まれたと伝えられます。
事件後ある種の聖地となったわけです。
なぜ政言とは意知を斬りつけた?
佐野政言が意知を斬りつけた事件の原因、いろいろ詮索されていて、真実は闇の中ですが。
佐野家の系図を返してほしいと催促したのに返してくれない。
佐野の知行地にある「佐野大明神」を田沼の家来が「田沼大明神」に改めた。
佐野家の七曜紋入りの旗を意知に貸したところ、「七曜は田沼家の紋」だと主張し、返却されなかった。
田沼家はもともと佐野家の家来筋の出なので、昇進を頼んだのに、叶えてもらえなかった。(年収の2~3年分のお金をつぎ込んで出世工作の根回ししていたのに叶わなかったとの史料もある)
または、田沼親子の改革に反感をもつ人々の代表として、意知の殺害を実行した。
いやいや、ただの「乱心」事件だろ…などなど。
『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』から考察する
『いだてん』で佐野政言を演じていらっしゃる矢本悠馬さんは大好きな俳優さんです。
その影響もあり、私は佐野政言が起こした事件は江戸の民と同じように、政言の肩をもってしまいます。
ドラマの創作かと思いますが、政言は「親の容態が悪く…」と言っています。
父親の佐野政豊は認知症の様子。
政言に支えられながら、庭に出て満開の桜を見上げる政豊は「佐野の桜はいつ咲くのだ。」と言う。認知症の政豊は咲いている桜が認識できない(´;ω;`)
「もう咲いておりますよ、父上。」という悲しげな表情の政言。
不器用だけど、介護をしながらまじめに働き生きている政言に味方したくなるじゃないですか。
森下佳子さんの脚本、好きです。
田沼意次
そして、今年の大河ドラマのおかげで田沼意次を以前ほど嫌いじゃなくなったのですが、調べれば調べるほど、田沼の狡さや汚さ、やっぱり嫌いだ(笑)
田沼意次は蝦夷地を利用して財政を立て直そうと意知亡き後も政策を続行しますが、翌天明5年の蝦夷地の調査では思うような結果が出ず、天明6(1786)年7月には大雨により印旛沼の干拓地が水没してしまった。浅間山から降り注いだ火山灰が堆積、利根川の川底が通常より高くなっていたためです。
その直後、将軍徳川家治が亡くなります。
さぁ、松平定信、出番だぞ!
しかし、質素倹約を推し進める定信の政策に、蔦谷重三郎はどうする?
米価下落の真相は
高止まりだった米の相場は政言の刑の翌日から下落しますが。
それは切腹直後に幕府が天明の大飢饉で苦しむ民衆を救済するために、大坂町人から買持米を6万5000石ほど摘発し、その3分の1にあたる2万8000石が江戸に到着したためです。
佐野政言が起こした事件とはまったく関係なかったわけで、米価はその後再度上昇します。
やがて田沼意次も失脚します。
ここらあたりの史実は、令和の米不足と備蓄米放出に似たものがあります。
令和の田沼意次は誰?やがて失脚する?
22日㈰放送の『べらぼう』を見た後すぐに、このブログの作成に取りかったのですが、その翌日NHKBS『英雄たちの選択』で田沼意次の考察の中で佐野政言が起こした刀傷事件を取り上げていましたので、大きく加筆いたしました。