日本の将来について明快に提起したのです。
これからの日本は、武力社会ではなく生産社会に、貴族社会を平民社会にあらためなければならないと。
明治維新の改革はまだ甘い。
天下国家という政治的価値の優先から人民の生活と権利の擁護、そしてそれまでの上等社会中心の欧米主義を社会の下層に移そうとする移行をすべきであると。
徳富蘇峰は『家庭雑誌』を創刊し、「田舎紳士」を担い手とする農村からの資本主義構想「平民主義」を支える、自由・平等の独立した家庭をえがきだします。
それは体制イデオロギーとしての「家」とは明らかに違うものでした。
蘇峰には二つの仮装敵がありました。
ひとつは上からの欧化主義を推進する勢力で、蘇峰はこれを「貴族的急進主義」と呼びます。
鹿鳴館を舞台に欧化主義を演出した井上馨外相がその中心人物です。
もうひとつは政教社グループで、欧化主義に反発する保守主義を説きました。
鳥尾小弥太、谷千城らの軍人から支援を受けた陸羯南の新聞『日本』や志賀重昴らの雑誌『日本人』などです。
参考文献⤵
しかし、1894年7月25日の海戦と28日の陸戦によって清国駐留部隊を駆遂し、ソウル周辺を勢力下に置いた日本は、8月1日に清国に対して宣戦布告をします。
日清戦争の始まりです。
130年前の今日です。
徳富蘇峰は、日清戦争を契機に、個人主義・自由主義・平民主義から、国家主義・帝国主義・皇室中心へと転換を遂げていきます。
家庭の独立と自治、主婦の経済的自立と主体性の確立を唱えていた蘇峰は、個人主義的なものから国家主義的なものへ変化します。
1895年以降になると主張はしだいに通俗的となり、初期に担った社会的役割を喪失していくのです。
『家庭雑誌』は明治31(1898)年に廃刊、蘇峰のえがいた家庭もその存在理念を失っていました。
民法親族・相続編が交付され、家族制度が確立した年でした。
蘇峰が『家庭雑誌』を廃刊した5年後、明治36(1903)年4月、堺利彦が蘇峰の雑誌と同名の『家庭雑誌』を創刊します。
徳富蘇峰ほどに知名度はありませんが、堺利彦もまた気になる現代史の人物です。