現在再放送中のNHK朝ドラ『カーネーション』、「私を見て」では、黒田屋百貨店の火災で女性店員が逃げ遅れたとのニュースを知った糸子が、洋装の制服をデパートに売り込むというお話がありました。
このエピソードは、私が小さな頃から何度か耳にしたのが、
昭和7(1932)年12月16日。92年前の今日。
白木屋の4階玩具売り場から火災が発生します。
4階から8階に向かって延焼し、上の階に取り残された店員14名が死亡した火事です。
上の階から命綱を手に下に降りようとした女性たちの多くが、和服のため裾が広がり、それを恥ずかしがり、手で裾を押さえようとして、命綱から手を放したことが転落の原因と見なされました。
この火災で、洋服を着用していれば死ななくてすんだであろうと庶民に認識させたという神話ができあがりました。
私は小さな頃このデパートの火災を母からよく聞かされました。
しかし、この洋服普及の神話は、昨今の研究ではいささか疑問視している研究者も多いようです。
日本の女性たちの衣服は、いつ着物から洋服へと変化していったのでしょうか。
目次
欧化政策での洋装推奨
明治時代。
欧化政策によって女性華族や官僚夫人が洋服に袖を通します。
しかし、日本のほとんどの女性は、明治10年代も20年代も和服で生活をしています。
欧化政策によって一部の女性が洋服に袖を通したものの、①非常に価格が高価、②窮屈で着心地が悪く健康面に影響がある、③活動的に不便…などの問題があったのです。
現代を生きる私たちにしたら、①の価格が高価は当時であれば納得できますが、②窮屈だとか③活動的に不便というのは、理解できません。私たちにしたら、着物の方が洋服よりずっと窮屈で活動的に不便ですから。
女性用袴の登場
そうこうしているうちに、華族女学校幹事兼教授下田歌子が女性用の袴を考案します。
着物と袴の組み合わせは洋服の代用服と位置づけられるかもしれません。
袴は女性の脚を隠すことで礼節上でも好ましかったのです。
また、袴は帯が不要で、衣服の損傷も少なく、経済的です。
明治の女学生
明治時代の女学生といえば、大和和紀の漫画『はいからさんが通る』(物語の設定は大正時代)を思い浮かべます。
着物に袴のスタイルです。
このスタイルは明治32年の高等女学校令により高女が設立されると、日本全国で見られるようになります。
袴の色は、北海道の上川高女は黒、宮城県の
実科高等女学校
明治44年に実科高等女学校令が公布されます。
石川県の能美郡立実科高等女学校は、明治44年の開校とともに緑色の線を入れた海老茶の袴を採用します。
セーラー服を卒業して洋装の職業婦人へ
大正8年以降に洋式の制服を取り入れる高等女学校が増えます。
なかでも人気のセーラー服を取り入れた高等女学校では、学校の洋裁授業で各自縫製します。
高等女学校で洋式の制服を着るという服装感覚を持つ若い女性が増加します。
昭和になると、卒業後に職業婦人となる女性たちは洋服を好んで着用するようになるのです。
参考文献⤵
『カーネーション』の糸子は、デパートへの「洋装の制服」の売り込みに成功し、デザイナーとして着々と成長していきます。
国から贅沢と指摘を受けた金色の柄を上手に隠し行き場のなくなった生地を上手にアレンジしたり、着物でモンペを作る教室を開催したり、糸子の才能とポジティブな性格が事業を成功させていきます。
こういったサクセスストーリーは私の大好物です。
しかし、今は戦争中の物語がメインなので、辛い場面が多いです。
一昨日放送の勘助の最後の場面は再見ですがまた号泣しました。
そうだ、勘助はデパートの制服作りも一生懸命手伝っていたっけ…