慶応四年。
数百年に渡った「侍の時代」が終焉を迎えようとしていた頃、日本は戊辰戦争の只中にあった。
薩長率いる新政府軍は朝廷を擁し、自らを官軍と名乗った。
徳川相続を願う旧幕府派を賊軍と断じ、力尽くで屈服させていった。
長岡藩を中心とする徳川幕府に近しい諸藩は奥羽越列藩同盟を結成し、官軍を迎え撃つこととなった。
どっち付かずの日和見で戦を避けていた越後の小藩・
同盟軍と共に戦うかそれとも官軍になびくか新発田は決断の時を迎えていた。
山田孝之さん仲野太賀さん主演の映画『十一人の義賊』はそんなナレーションで始まります。
この史実をしっかり脳内にインプットしておかないと、映画の内容を理解するのがややこしくなります。
目次
死罪になるべき10人の罪人たち。
その圧倒的に不利な命懸けの過酷ミッションとは、
【新政府軍が砦へ侵攻するのを防ぐこと】ただそれだけだった。
死を覚悟していた彼らに見えた、
“生きる”という一筋の希望。
戊辰戦争
社会科の歴史で必ず学ぶ有名な戊辰戦争。
慶応4(1868)年1月3日の鳥羽伏見の戦いから始まり、翌年5月の箱館戦争で終わります。
1年4か月の間に壮絶な戦いがいくつもありました。
新発田藩の歴史的裏切り
反新政府軍を掲げて仙台藩を盟主に計31藩が「奥羽越列藩同盟」を結成します。
現在の新潟県新発田市に位置する新発田藩は、もともと新政府側だったものの、旧幕府寄りの周辺諸藩の圧力により加盟します。
結局、ギリギリのタイミングで新発田藩が同盟軍に反旗を翻し(裏切りといえるかもね)もともとの方針に従って官軍側に鞍替えするのです。
北越戦争
慶応4(1868)年から始まった、長岡藩周辺地域で行われた一連の戦闘の総称です。
同時進行で会津藩では会津戦争が行われていました。
明治2(1869)年1月7日、参謀西園寺公望は、越後に残留し任命されえいた新潟府知事を1月15日に辞職し、新発田藩士に見送られ、山内村経由で東京に向かいます。
同年4月1日柴田本営は越後府に合併、「新発田引き払いに相成り候事」で北越戦争の一切は終わります。
156年前の今日です。
官軍と賊軍
長岡藩は戦争により、多くの人々が家を失い田畑を荒らされましたが、新発田は藩の機転で戦火を逃れました。
慶応4年7月25日、新政府軍は新発田藩の協力により新潟湊を攻め落としました。
新発田藩は「裏切り者」として周辺国の怒りを買いましたが、城下での戦を回避し城と民を守ったといえるでしょう。
しかし、その怒りは長く続き、新潟県民のなかにはその後も悪感情が残り続けたと言われています。
「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉があります。勝った方がすべて正しく、勝敗によって善悪が決まるのが当たり前の時代でした。
勝つことが正義なのか?
映画『十一人の義賊』では新発田藩目線の物語。
長岡藩からの目線で、もう1度『峠 最後のサムライ』を見てみたいと思いました。
『十一人の義賊』は、長女の旦那様に勧められて視聴したのですが、旦那様は「長すぎた」との感想でした。
私は面白かったです。