幕末の立役者といえば、坂本龍馬、高杉晋作、西郷隆盛などを思い描く方が多いかと思います。
実は徳川
徳川慶勝は、徳川御三家筆頭の立場でありながら、幕府の息の根をとめました。
欧米列強の餌食にならないために、内戦を避けるために尽力したのです。
目次
安政の大獄
嘉永6(1853)年、アメリカの黒船艦隊が日本に姿を現れ、開国をせまります。
尾張藩主徳川慶勝は反対しましたが、幕府は開国を決め、大老井伊直弼は独断で日米修好通商条約を結びます。
慶勝は井伊直弼に直談判を試みるも叶わず、隠居謹慎を命じられます。世にいう「安政の大獄」の始まりです。尾張藩主を退かれた慶勝35歳。
さすがの井伊直弼も、三家水戸の徳川斉昭やその息子の一橋(後の徳川)
復権
桜田門外の変で井伊直弼が暗殺され、幕府の権威は大きく失墜します。
朝廷を貴び外国を打ち払おうとする「尊王攘夷論」が台頭する中、幕府は朝廷と力を合わせて国難を乗り切る「公武合体」を唱えます。
そんな中、孝明天皇から信頼を得た人物のひとりが徳川慶勝でした。
孝明天皇は、朝廷と幕府の間に立ち双方をとりもてる人物として慶勝に期待していたのです。謹慎をとかれていた慶勝を徳川将軍を助ける将軍
慶勝の幼い息子が尾張藩主となり、その後見役として慶勝は尾張藩の中でも再び実権を握ります。
長州征伐
京都では、尊王攘夷派の長州藩と公武合体を唱える薩摩藩が対立し、治安が乱れていました。
そんな京都の町を守るための京都守護職を任されていたのが、徳川慶勝の弟、会津藩主の松平容保でした。
そしてもう1人の弟、桑名藩主の松平定敬も同じく京都所司代を務めます。
元治元(1864)年、松平容保配下の新選組が尊王攘夷派を襲う池田谷事件をきっかけとして、禁門の変が起こります。
多くの長州藩が命を落とします。
幕府に抵抗する長州征伐の命がくだります。
幕府にとっては、240年ぶりの軍事行動、国を二分にした戦いが始まろうとしていました。
その総督に、弟たちの依頼を受け、全権委任を条件に徳川慶勝が立ち上がります。徳川の家名を背負っての戦いでした。
慶勝は、長州征伐の水面下で手をうちます。
長州征討参謀として、薩摩藩士西郷隆盛を送り込んでいたのです。
その目的は和平交渉。
長州には幕府と戦い抜く力は残っていませんでした。説得を受け入れた長州は戦火を交えることなく降伏します。
慶勝は、長州を力でねじ伏せるのは日本にとって得策ではないと考えたのでしょうか。西欧列強に向き合うためには、日本人同士が戦っている場合ではないと。
しかし、慶勝の思いは、弟松平容保や松平定敬にも、将軍徳川
大政奉還
慶応2(1866)年12月、幕府の後ろ盾となっていた孝明天皇が崩御します。
薩長は公家の
徳川慶勝は「議定」のひとりに選ばれました。
旧幕府軍との戦い
しかし江戸時代最後の将軍であった徳川
それどころか岩倉具視らは
これを機に慶応4(1868)年1月、旧幕府軍と新政府軍の激突「鳥羽伏見の戦い」が起こります。
新政府軍が勝ち、徳川慶勝の弟松平容保や松平定敬は旧幕府側として敗者となります。
「この国に戦火を起こしてはいけない」という思いで徳川慶勝は、新政府に抵抗を試みる保守派を一掃し、新政府への忠誠を決意していました。徳川を守るという気持ちを超越し、日本を守るという気持ちだったのでしょう。
慶勝は、新政府側につくようにあちこちに説得工作をして回ります。
その750通もの証拠書類「勤王誘引用書類」が徳川林政史研究所に残っています。
慶勝が説得を始めた結果、無駄な血を流すことなく、慶応4(1868)年4月の江戸城無血開城へと時代が流れます。
江戸城を旧幕府から受け取ったのは、新政府軍の先鋒を務めていた尾張藩士たちでした。
会津戦争
8月、慶勝の弟松平容保が守る会津若松城を舞台に会津戦争が起こります。
もうひとりの弟定敬は箱館まで転戦しますが、新政府に囚われます。
弟たちは最後まで徳川への義を貫いたのです。
降伏をした容保と定敬の助命嘆願を行ったのが、兄慶勝でした。
同じく弟徳川茂徳は徳川一門の代表として新政府との折衝を行い、その尽力あってふたりの弟はその後日光東照宮の宮司となり、長く明治時代を生きることになります。
明治時代
明治4(1871)年の廃藩置県にともない、慶勝は名古屋城を明け渡すことになります。
彼がその後政界に立つことはありませんでした。
その潔さに凛とした品が感じられます。
北海道開拓
明治から始まった北海道八雲町開拓を指導した徳川慶勝。職を失った尾張藩士の身の振り方を案じ、北海道開拓に汗を流す藩士たちへ私財をなげうって届けたといいます。その金額現代に換算すると50億円にのぼるといいます。
北海道八雲町、人口およそ2万人の酪農が盛んな町です。
徳川慶勝が亡くなったのは明治16(1883)年8月1日。138年前の今日です。
八雲では、毎年8月1日には慶勝を偲ぶ祭りが開かれます。
八雲に住み続けている尾張藩士の末裔は、かつての殿様の人となりを大切に語り継いでいるのです。
以上、NHK名古屋が制作した2009年の番組をまとめてみました。
徳川御三家の筆頭でありながら徳川幕府を倒し、はからずも兄弟を敵にまわしてしまう慶勝の苦悩と決断が身につまされます。
西洋文化に興味をもっていた慶勝は写真が趣味でした。いや、その腕は趣味というより写真家そのものでした。
明治になってから、スーツ姿の四兄弟そろっての集合写真は慶勝の提案で実現しました。
また慶勝没後に発見されたのは、弟松平容保が守っていた会津若松城の激しい砲撃で白壁が崩れ落ちた写真(ガラス原盤)でした。慶勝自身が誰にも知られることなく撮影し、大切に保管していたものだと推測されます。